難解な空色の般若心経を黒色の物語に再構築する偉業・・・ こうの史代「空色心経」を読む
(2025.4.30）
センスと表現力で手間のかかる表現に取り組む職人芸・・・ こうの史代「ヒジヤマさん
星の音 森のうた」を読む (2025.5.16）
難解な空色の般若心経を黒色の物語に再構築する偉業
―――― こうの史代「空色心経」を読む(2025.4.30）
こうの史代が「般若心経」のマンガ化に取り組んだ。
語り口は「ぼおるぺん古事記」の延長線上だ。
般若心経が一節ずつ副題として置かれ、それを読み解くように物語が進行していく。
ためらいなく経典の漢文をそのまま使う/うかつな解釈を避ける愚直さは、
書き下し文をそのまま使った「ぼおるぺん古事記」に通じる。
そこに、黒色と空色の二つの物語が描かれる。
黒で描かれるのは、スーパーマーケットで働く女性「あい」の物語。
それと並行し時に重なり合うように描かれるのは、観自在菩薩と舎利子の空色の物語だ。
そうした黒色の物語と空色の物語が錯綜しつつ描かれる色のハーモニーも、
「ぼおるぺん古事記」で培われたものだ。
なお、そもそものところ「般若心経」は、
般若経典の神髄を観自在菩薩が短くまとめ舎利子に説法する形式で書かれているらしい。
つまり、空色パートは般若心経そのものの世界で、
こうの史代が到達した般若心経の理解を観自在菩薩と舎利子(とあの方)で描かれており、
対する黒色パートはその考え方が反映された現実世界での物語であり、
黒色の物語に交じる空色の言葉はナレーションのようでもある。
出かける準備をしてマスクをつけ室内を消毒する「あい」が黒色で描かれる中、
六つの「心がけて過ごすべき」こと(波羅蜜多)の一つ目として
「布施」「これは見返りを求めず施すこと」という言葉が空色でおかれる。
空色で「持戒」「戒律を守る」と語られる時、出勤した「あい」はタイムカードを押す。
更衣室のおしゃべりの背景には、空色の「忍辱」「精進」「禅定」「般若」が並ぶ。
般若心経が書かれた手ぬぐいを見ながら「何が書いてあるんですか」という「あい」に、
パート仲間が「ハンコと猫」「般若の面」「日本酒」(般若湯や)を思い浮かべるあたりが、
こうの史代らしい味わいだ。
空色の世界では、「私」を形作るものは「すべてカラッポ」なのだから、
「それを見きわめると、すべての苦しみから抜け出せる」(p23ーp26)と説く。
よく知られる「色即是空空即是色」の一節については、
「(形あるものには)なんの意味もない あるのはただ躍動のみ
それでもたまたま 形を結ぶ瞬間がある」(P32-35)とする。
この「躍動」と「形を結ぶ」の取り合わせに量子力学めいたものを感じたのだが、
よく考えると、こうの史代はかつて理学部で学んでいたのだった。
物語は、そこから「形を結んだ」黒色のスーパーマーケットの現実世界に戻り、
いろいろ昔のことを思い起こしたり、いつもの日々の中から気づいたりするうちに、
行きつ戻りつする空色の世界の観自在菩薩の言葉が届いたのか、
「あい」が悩み抜き、考え抜いた末にたどりついたものなのか、
黒色世界の「あい」は空色の言葉に導かれるように、 自分のとらわれに気づき、
そこから一歩だけ先に進むこととなる。
ちなみに、「あい」が気づいた瞬間、観自在菩薩が「あい」にやさしく寄り添うのだが、
性別不明だし舎利子からは「お兄さん」と呼ばれている観自在菩薩が、
どうにも中島みゆきに見えて仕方なかった。
そして、観自在菩薩は「恐れず見つめれば離れられるはずだ」と空中に残す。(p92)
こういう勇気づけ方も中島みゆきっぽい。
迷い、苦しみ、今は般若心経の手ぬぐいを必死で読み上げることしかできないけれど、
それでも以前よりは少し楽になった「あい」の精神世界は、 いつしか空色の世界と混然一体になっている。
「あい」の最後のセリフである「案外、近いんかもな」がなんとも心憎い。(p130)
それにしても、言葉の意味すらよくわからない哲学的で抽象的な仏教の哲学を、
よくぞここまで一般の読者にもわかる、しかも「物語」として再構築したものだ。
こうの史代もたくさんの参考文献を読みこんだのだろうが、
「盛大な解釈違いをしていたら申し訳ないので」「あえて挙げない」とあとがきに書く。
そんな風に恐縮しなければならないほどに、難しいことをやり遂げている。
読み終えた時、たまらない気持ちになって、
あるいは、こうの史代が何を語ろうとしたのかをきちんと理解したくて、
空色パートだけ、黒色パートだけ、そして、もう一度「空色と黒色」を合わせてと、
三度読み返したのだった。
朝日新聞出版サイト内「空色心経」紹介ページ
こうの
史代ブログ「こうのの日々」
Wikipedia
内「空色心経」ページ
センスと表現力で手間のかかる表現に取り組む職人芸
――――こうの史代「ヒジヤマさん 星の音 森のうた」を読む(2025.5.16）
客員教授をつとめる比治山大学での講義のテキストとして、
年１作ペースで描かれた「ヒジヤマさんシリーズ」８作を中心に、
独立した短編４作などを収録した短編集である。
中には、2006年の古い作品もある。
その短編４作のタイトルに「星の」「音」「森」「のうた」が含まれていて、
「星の音 森のうた」というそれらしいフレーズに再構成し、
その上に「ヒジヤマさん」をくっつけるという、 知的で手が込んでいるがノンセンスなタイトルである。
(こうしたシャドウ・ワークは、こうの史代の大好物と勝手に思っている。)
破天荒な仕掛けのハートフルコメディ「おでんせ大観音！」(「音」担当)を除くと、
いずれの短編も一筋縄でいかない面倒な構成だ。
「小さな恋のうた」(「のうた」担当)は「名曲漫画」の企画として描かれたものだが、
思いとうらはらな結論に惑い揺れる二人が共有する二つの「いつか」が重く切ない。
「星のふる里」(「星の」担当)では27号棟まである団地の号棟ごとの記憶が語られるが、
独白にないモノや理屈に合わないモノも描かれており読み込まないと先に進められない。
「リーゼと原子の森」(「森」担当)は物理学者リーゼ・マイトナーを取り上げているが、
その研究の核心である連続的な核分裂の過程を示す数式はどう平易に描いても難解だ。
「ヒジヤマさん」シリーズは不器用だが繊細で一途な美大生の日常を描いた 、
コメディというよりストーリーギャグに近い作品で、うち５作はサイレント漫画だ。
授業では、「着想から、絵コンテ、下絵、ペン入れ、仕上げまで、
全ての工程を 教材に落とし込み、生徒に漫画制作法を伝えた」そうだ。
サイレントである分、カットの切り替わり、視点の移動、効果線、描線の太さなどで、
状況、行動、心情、現実と回想の違いなどを表現しなければならず、
漫画家としての基礎体力が求められているように見えた。
「おしまいに」によると、「ヒジヤマさん」シリーズについて、
「たぶんわたしはこういう漫画ぱっかり描く人になりたかったんだ」と思ったとする。
センスの良さと抜群の表現力を背景に、わざわざ自分で制約を課して、
手間はかかるがその制約でどこまで表現できるかに取り組み(それを好きでやっている)、
自分の心情に近いものを登場人物に込めながら、
ちゃんと皆が面白がってくれるようなところに絶妙に落とし込む(ちゃんと仕事はする)。
そんな職人のような仕事は、確かにこうの史代らしくはある。
「この世界の片隅に」以来、ちょっとエラくなりすぎた「しんどさ」もあるのだろう。
そして、最後に置かれている描きおろしに近い「描く人へ」は、
若い人たちに向けた、こうの史代のグチでもあり決意表明でもある、
すべての孤独な人を勇気づける連帯のメッセージだった。
そんなわけで、こうの史代の芸も感じつつも、
こうの史代という人をうかがわせるような本だった。
勘違いかもしれないが。
コアミックスサイト内「「ヒジヤマさん 星の音 森のうた
こうの史代短編集」発売決定」ページ
こうの史代ブログ「こうのの日々」内「短編集「ヒジヤマさん 星の音
森のうた」(2025.3.30)